2009年09月06日
戦争について
「8月15日の特攻隊員」という本がある。
終戦を告げる昭和天皇のラジオ放送から5時間後、
沖縄の米軍に対し、航空機に爆弾を取りつけて
決死の体当たり攻撃を行う、
いわゆる特攻作戦を遂行した部隊を追う
ドキュメンタリーである。
昭和54年生まれ、当時25歳であった著者の吉田紗知さんは、
「終戦の日の認識が私たちとは全く違っていた。
スピードがついた車が急に止まれないように、
いきなり終戦と言われても受け入れられなかったのでは」
と感じたという。
終戦を迎え、生きて故郷に戻った特攻隊員もいる。
「特攻証言集」というビデオでは、元特攻隊員の老人が、
「戦争に負け、さらに死に損なった。
戦死した友に申し訳ないという思いをずっと抱いてきた」
と話す。
特攻は人類史上類の無い作戦であった。
太平洋戦争が開始してから約3年、
日本軍は連合国軍に対して劣勢に立たされていた。
この頃、戦闘機による戦艦への爆撃行為が
作戦上で重要な位置を占めるようになっていた。
当時の爆弾には誘導機能は無く、単に投下するだけであった。
物量で勝る連合国軍は、
必要量の数倍の爆弾を投下することで命中率の低さを補った。
日本軍は、これに対抗するためには少ない爆弾を
確実に命中させることが必要だと考えた。
特攻とは、人間が誘導機となり、爆弾もろとも戦艦にぶつかって、
命中度を高める作戦であった。
終戦までに、2500人を超える若者が
特攻任務を遂行し、その命を海に散らした。
特攻作戦への参加は本人の志願制であったが、
半ば強制的に志願させられた隊員もいたという。
しかし多くの場合、祖国や家族を守るための
唯一かつ最高の作戦であるとして、自ら志願したといわれている。
動機は様々だが、どの特攻隊員にとっても、
生きることは如何にして死ぬかということだった。
一旦死を覚悟した人間が終戦を迎えたとき、
ある者は自らが決めた死にこだわり、
ある者は死を先送りにし、
祖国の復旧の為に力を尽くした。
先立った友への罪悪感を忘れることの無いまま。
僕の祖父も、特攻隊員だった。
17歳で海軍飛行予科練習生(予科練)に志願し、
約半年の訓練を経て、九州地方のある基地に
特攻隊員として配属された。
年若だった祖父には出撃命令が下されず、
先立つ仲間を見送りながら、
森の中に隠した飛行機の整備を続けている間に
8月15日を迎えた。
祖父は、生きて故郷に帰った。
4人兄弟の長男であった祖父は、
故郷に戻ると家業である農業を継いだ。
一日も休まずに畑仕事をしながら、
3人の弟を全員大学に進学させた。
8月15日を2日前に迎えたある年の夏、
実家で祖父と食事をした。
祖父は畑で採れたばかりのキュウリをかじりながら、
「戦争は、俺の青春やった」とつぶやいた。
祖父は僕が小学生の頃、よく予科練時代の話をした。
朝は信号ラッパの音で目を覚ましたこと、
隊の食事で出たカレーに驚き、同僚に笑われたこと。
そして、自分は目が良く、飛行機乗りとして
有望視されていたこと。
祖父の発言は、幼い僕には戦争賛美の言葉に聞こえ、
私は祖父をひそかに軽蔑していた。
26歳になって祖父の口から聞いた青春という言葉には、
戦争賛美では片付けられない何かがあった。
青春が、何かを達成するために
命をかけることを意味するのならば、
戦後は兄弟の為にひたすら鍬を振り続けてきた祖父にとって、
特攻隊員として生きた時間は確かに青春だったのかもしれない。
爆弾を抱え、敵艦に体当たりするための青春。
祖父はキュウリに箸を伸ばしながら、
「戦争は、やったらあかん」と言った。
僕はその言葉を黙って聞いた。
双方無言になり、しばらくすると、
テレビから軍艦マーチが流れてきた。
高校野球の第二回戦で、
静岡代表と山形代表が9回の攻防を行っていた。
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