Recent Entries

  1. 脱走(2)
  2. 脱走(1)
  3. 謝るということ
  4. じいちゃん

2010年09月18日

脱走(2)

僕が2度目に脱走したのは、
高校2年生のときである。


水泳を通し、個人競技の孤独さを味わった僕は
チーム競技に憧れるようになり、
中学のころからバレーボール部に入部した。


バレーボールは、バスケットボールと同様、
身長という身体的特徴によってかなりプレースタイルが制限されるが、
僕の場合、中途半端に背が高かったため、
センターという最も身長が求められるポジションになり、
中学のときはかろうじてレギュラーだったものの、
本番時の勝負弱さもあり、高校の頃は
同期内で3、4番手の補欠キャラに甘んじていた。


ちなみに、中学のときの部は、
先輩がちょっとしたワルであり、
ネット貼りなどの準備中、ひたすらボールを蹴られたり、
「今までで一番気持ちよかったことを言え」
と辱められたりした。


ちなみに、そんな先輩の最後の試合のとき、
一人の先輩が髪型を往年の大槻ケンヂみたいな
髪型にしてきて度肝を抜かれたが、
その気合いもむなしく、初戦敗退で幕を閉じた。



往年の大槻ケンヂ


高校1年の頃の先輩には恵まれ、
献身的なサポートをしながら過ごしつつ、
先輩が引退し、僕らの学年が部の中心になった。


顧問の先生は、先輩が引退したときに
部員全員を招集し、
「お前らは、どんなチームになりたいんや、
 勝てるチームになりたいのか、
 それとも、バレーを楽しめるチームになりたいのか」
と聞いた。


僕は水泳時代のトラウマから完全に抜けきれておらず、
「えー、楽しめるチームでお願いします」
という気分だったが、部内全体としては
「勝てるチーム」というのが圧倒的多数であり、
結局、勝てるチームを目指した部内運営が始まった。


翌日から、部内の雰囲気は一変した。
先生の態度は露骨に厳しくなり、
練習内容も格段にハードになった。
先輩は「楽しめるチーム」派だったらしい。


楽しめるチームモードでも
それなりにハードに感じていた僕は
練習の辛さにめげそうになりながらも、
同期の部員は皆いいやつばかりであり、
練習には参加し続けていた。


顧問の先生は数学教師でもあり、
僕のクラスの担当ではなかったが、
本質をわかりやすく説明する技術と、
生徒の理解度に合わせた補習プリントで
人気を博していた。


バレーボールの練習の中で、
最も過酷な練習は、ワンマンである。


これは、コーチと一対一の状態で、
コーチから飛んでくる球をひたすら受け続けるという、
肉体的だけでなく精神的なタフさを養成する練習である。


飛んでくる球は、アタックだったり、
頭上を越える大飛球だったりするのだが、
とにかく、球に食らいつかなければならない。
あれはどうやっても拾えないといって傍観することは、
この練習において最も罪深い行為である。


先生のワンマンメニューは、
まず、ひたすらいろんなところにボールを投げてそれを追わせ、
体力が程よく削られた所に全力のアタックを打ち込み、
時折フェイントを織り交ぜ、
何がなんだかわからなくなってきたところで
最後はあらゆる種類の球をランダムに飛ばしまくる
といったものである。


冬休みになり、
ほぼ毎日、一日中の練習が組み込まれることとなった。
僕は当時彼女もいなかったために、
終日フリーだったのだが、何となく憂鬱な気持ちで
練習初日を迎えた。


先生は初日から気合いが入っており、
ワンマンが開始された。
僕は戦々恐々としながら、
周りで声を出し、走り回る同期に檄を飛ばしていた。


冬なのに汗だくになった部員が5名ほど出てきたところで、
僕の番になった。
先生は僕に気合いが入っていないことを
見抜いており、この際に根性を座らせてやろう
という思いで、ひたすらボールを投げ続けた。
いつにも増して厳しいワンマンである。


届くはずの無いボールを追いかけ、滑り込む。
周りからは「可知、オーイ!」といった檄が飛ぶ。
足下がおぼつかなくなり、ある瞬間、
あー、もうダメ、と思う。僕は足を止めた。


先生は、相変わらずボールを投げ続けるが、
僕がボールを追おうとしないことに気付き、
手を止めて、僕を見つめた。


同期は、「オイオイ、可知どうした!」
みたいな感じで檄を飛ばし続けていたが、
様子がおかしいことに気づき、
体育館内にはやがて静寂が訪れた。


先生が、静かに、「お前、やる気あるのか」
と僕に対して問いかけると、僕は、
「やる気、ないです」と答えた。僕の悪い癖だ。


先生は、5秒ほど沈黙した後、
「じゃあこの体育館から出てけオラ!」
と言い放った。
僕はトボトボと体育館の外に向かって歩いていった。
相変わらず体育館は静かだった。


階段を下りて外に出ようとしたとき、
同期のI君が、
「可知、待てよ! 本当に行くのかよ!」
と僕を止めた。
そのシーンは、さながら青春ドラマのワンシーンに
勝るとも劣らない、迫真の瞬間だった。


放心状態の僕は、曖昧な笑顔を浮かべて
体育館を後にした。
下駄箱で靴を履き替えながら、なぜか泣けてきた。


結局、僕はそれ以来部活に顔を出さなくなったが、
何となく先生に顔を合わせるのが嫌で、
退部届けも出さず、フラフラしていた。


3月頃になり、
さすがにちゃんとけじめをつけなければと
思い立った僕は、おそるおそる職員室に向かい、
顧問の先生を訪問した。


先生は、普段と変わらない口調で
「おう、可知、どうした」と話しかけ、
僕が退部の意思を告げると、同じ口調で、
「そうか、お前がそういうならそれでいいんだ、
 けじめをつけることが大事だ」
と言った。


高校3年になり、その先生が担任のクラスになった。
数学も先生に教えてもらうことになり、
先生の補習プリントによって
当時意味不明だった行列のあたりを
理解することができた。
先生は僕と話すとき、部活についての話を
一言も出さなかった。


僕はなんというか、
先生が、人間関係をきちんと分けてくれたところに、
すごく感謝をしている。


ちなみに、先生が放った「出てけオラ」、
および、同期が放った「待てよ」は、
クラス内でちょっとした流行語になり、
先生にばれない範囲で、ことあるごとに使われ続けた。

2010年09月16日

脱走(1)

僕は人生で2回ほど、
脱走した経験がある。


1度目は、小学生5年のときまで通っていた
スイミングスクールでのことだ。


僕は意外と水泳が上手だったらしく、
あれよあれよという間に、
選手コースに配属されることになった。


通常コースが心身の鍛錬を目的としたものであるのに対し、
選手コースは試合での勝利をひたすら追求し続けるところであり、
それまでニコニコして水泳を教えてくれていたコーチが
選手コースの時間にはものすごく厳しいことに対して
僕は衝撃を受けた。


練習は週三回、それぞれ各三時間だったが、
とにかく辛く、次第に行くのが嫌になってきた。


また、選手コースに入ってから大会に参加するようになったが、
スクール内では無敵を誇っていた僕が、
ビリッケツ争いに必死になり、
自分が所詮三流スイマーであることを痛感させられたあげく、
帰りのバスの中で、最近手相に凝っていると言い出した
鬼の石原が僕の手相を見て、
「生命線、知能線が短く、全体的に筋が薄い、
 いいとこなし!」
とバッサリ切り捨てるなど、
水泳に対するモチベーションが徐々に低下しつつあった。


ちなみに、練習日は週二回か週三回かの
どちらかを選ぶことができたのだが、
鬼の石原による、
「週三回の方が、体が慣れて逆に辛くない」
という意味不明な理論に惑わされ、
週三回をチョイスしたという経緯がある。


ちなみに、鬼の石原のカラオケ十八番は、
吉川晃司「KISSに撃たれて眠りたい」である。


練習が始まるのが夕方くらいからなので、
毎回、母親が軽食として
鮭茶漬けを用意してくれていた。


僕はその鮭茶漬けを、当時話題を呼んでいた
有言実行三姉妹シュシュトリアン」を見ながら
食べ、練習に向かっていたのだが、
これから始まる練習に絶望的な気分になり、
それ以来鮭茶漬けがトラウマになった記憶がある。


嫌々ながらも練習を続け、3ヶ月くらい経ったある日、
スクールで合宿が開催されることになった。
二泊三日か三泊四日で
朝から晩までひたすら泳ぎ続けるという、
恐怖きわまりないイベントである。


布団持参での参加が義務づけられていたため、
布団を車に積み込み、母親に送られて
合宿が始まった。


通っていたスイミングスクールには、
四人の名物コーチがおり、その厳しさの順に、
「鬼の石原」
「情けの船橋」
「危ない山本」
「仏の松枝」
という異名が付けられていた。


僕の担当は幸運にも仏の松枝であり、
割と余裕のあるスケジュールで
無難に練習をこなしていった。


昼食が近くなり、やれやれと思ってプールから上がると、
「皆、いったんプールサイドに着席」
という命令がくだされた。


何事かと思って、座っていると、
一人の女の子が、プールに残っている。


その子は鷹見さんといって、僕と同学年で、
僕より前から選手コースに所属している。
女の子にも関わらず僕よりも早く、
スクールでもかなり期待されていた選手である。
男勝りの性格で、学校の男子からも恐れられていた。


その鷹見さんが、泣きながら、
ひたすら泳いでいる。
鷹見さんの担当は鬼の石原だった。


どうやら、一定時間内に50メートルを泳ぎきる
という練習をしているようで、
何度泳いでも時間内に泳げないので、
ずっとやり直しをさせられているらしい。


一度泳げば、当然体力が落ちるため、
次でタイムをきることはさらに難しくなる。
鷹見さんの体力は相当消耗しており、
タイムを切れる可能性は非常に低いように思われた。


そんな絶望的な状況にも関わらず、
「次で決めないとさらにえらい(しんどい)ぞ、
 がんばれや、オイ」
と静かに鷹見さんに話しかける鬼の石原は
まさに鬼であった。


結局、鷹見さんがどうなったかはよく覚えていない。
僕はその瞬間から、
とにかくこの合宿から逃げ出さなければならない
ということだけを考えるようになった。


午後の練習も無難に終了し、
夕食の時間になった。
ほか弁の、鳥の唐揚げ弁当だった。


僕は唐揚げを1、2個口にして、
吐き気を催した気がした。
あたかも、不登校児が、
朝起きると腹痛を催すがごとくである。


トイレに行って、便器に向かって吐いてみたところ、
微量の食べかすが便器内に落ちた。


それは多分、口の中に残っていた食べかすだっただろうが、
僕はそれを嘔吐物だと自分を納得させ、
こんなに体調が悪いのだから
今すぐ家に帰らなければならないと結論づけた。


タイミングを見計らって、「仏の松枝」に近づき、
涙ながらに事情を説明したところ、
「まあそれじゃあしょうがないね」と、ゴーサインが出た。


僕はなるべく人に見つからないように
持ってきた布団を担いでスクール玄関まで移動し、
家族に迎えの電話をかけた。
その際、敢えて孫に甘い祖父に電話し、
クラウンで迎えに来てもらった。


陳情相手として仏の松枝をチョイスし、
母親でなく祖父に電話した点に、
かなりの用意周到さが伺える。


帰宅した僕を、父親と母親はびっくりした顔で迎えた。
僕は唐揚げを1、2個しか食べていないため、
おなかが空いていたが、
体調が悪いことを印象づけるために、何も食べず、寝た。


一日中泳いだ上に、夜ご飯をまともに食べなかったため、
翌日、おなかが空きすぎて目が覚め、
低血糖状態になり、震えながら残り物を口に入れた。


ちなみに、このような低血糖状態は
少年時代に何度か経験があるが、
子供会で毎年行った土岐少年自然の家に宿泊した翌朝は
かなりの確立でこの状態に陥り、
震えながら朝食前のラジオ体操をした記憶がある。


のうのうと時間を過ごし、
合宿終了後、何食わぬ顔で練習に行ったところ、
鷹見さんに、「あんた逃げたやろ」と指摘され、
僕は何も言えなかった。


結局、それから1ヶ月ほどして、
どうしても練習に行きたくないことを母親に告げ、
母親に電話してもらい、スクールをやめた。


それ以来、学校で鷹見さんに会う度に、
僕はひたすら気まずい思いをし続けた。

謝るということ

先日、知人の子供@1歳10ヶ月と遊んでいたところ
突然積み木を投げつけてきたので、
痛えなこの野郎と睨みつけていたところ、
子供のおばあちゃんが険悪なムードを察知し、
「あんた、ちゃんと可知君に謝りなさい」
と子供に言った。


子供は、無言でおばあちゃんを見つめていたが、
そのうち、泣き出した。


その子は、全然泣かない子供だったのだが、
そのときだけは死ぬほど号泣していた。
おばあちゃん曰く、絶対に謝るのが嫌なのだそうだ。


自己否定というのは、
人間にとってものすごくつらいことなんだろうなあ
と思った。


その後、頃合いを見て、
子供に向かって変顔をしてみたところ、
素で無視され、悲しかった。

2010年09月09日

じいちゃん

戦後、何もなかった時代から
農業一筋で3人の弟を大学にやり、
持ち前の先見性で住宅地の駐車場経営で成功した
うちのじいちゃんは今年で86歳になる。


20年ほど前に車にはねられたときも、全く弱音を吐かず、
折れた骨を固定するための金属ボルトが
埋め込まれた足を風呂で得意げに見せてくれた。


愛用のクラウンの中にシートベルトを体中に巻き付けて
車内に立てこもっていたボケ気味のひいじいちゃんを
容赦なく力任せに車外に引きずり出していたじいちゃんだが、
数年前に旅行先の四国で心筋梗塞を起こして以来、
少し元気がなくなったようだ。


先日、1週間ほど実家に帰っていた際、
家族で写真を撮ろうと全員集合したところ、
じいちゃんが「写ルンです」を片手にやってきたのを見た僕は、
岐阜屈指の家電量販店であるエイデン恵那店におもむき
安いデジタルカメラをじいちゃんとばあちゃんのために買った。


「じいちゃん、これ写ルンですよりも使いやすいぜ、
 写真とった後に確認できるぜ、
 カメラ屋にいけば簡単に現像できるぜ、
 カードの容量4ギガバイトあるから3000枚くらい保存できるぜ」
と、意気揚々と説明をしてみたところ、
じいちゃんはちょっと困ったような顔をしている。


一通り説明を終えると、ばあちゃんは
「こら便利そうやから、練習して使い方覚えなあかんな」
とうれしそうにカメラを触っている。


そんなばあちゃんを横目に、じいちゃんは一言、
「おれはよくわからんから、おんし(お前)が覚えといてくれよ」
と言った。


小さい頃、日曜日の新聞についてくる頭の体操欄みたいなのにあった
漢字テストみたいなやつを毎週欠かさず行っており、
毎回「非常に優秀」のスコアを叩き出していた
じいちゃんの台詞とは思えず、
僕はじいちゃんを二度見してしまった。


そんなじいちゃんも、
地デジ放送の使い方には習熟しており、
毎日、自分が持っている株の株価を
水戸黄門の合間に確認している。

Search